Sunday, April 11, 2021

田舎の中学校での "中庭の乱"

 昭和末期から平成初期の栃木県北のある中学校の実話です.末期と書くと世も末的な響きになりますが,単に筆者がその学校に通っていた昭和60年台が平成時代に移り変わる直前というだけの話.

いま (令和3年) どうなのかは筆者は外国居住中なこともあり知る事が難しいが,当時はこの公立中学校は校庭は開放されており,授業中は勿論のこと24時間365日入ることができた.中学校というある意味難しい年頃なのと,町内に1つの中学校ということ等の条件もあったためだろうか,"訳あり" な卒業生が母校来訪することも珍しくなかったようである.放課後等に校庭内の教諭陣の目が届かないでかような卒業生たちが在校生と "交流" しているのを見かけるのは珍しくなかったが,義務教育を終え時間的縛りが緩くなった卒業生たちが中学校の授業中に "来訪" することも日常的だったのだと思う.授業から姿を消して校舎の後側に佇んでいる類の同級生達が時折そのような卒業生と "面会" していたのを知っている.筆者の住む米国と絡めて言うと,そのような先輩方は "ヤ●キー" と呼ばれていた.

さて,授業中の卒業生来訪で印象的な,中庭への "突入" の話.

その中学校は主な校舎屋が前後の二棟に分かれていて中庭がある.中庭へは,前棟と後棟を結ぶ廊下の外部露出部分を超える必要があるが低く徒歩や自転車等でも超えられるようになっており,他に特に仕切りは無いため誰でもいつでも入ることができる.かと言って,後棟のすべての教室 (10組/学年 x 3学年 = 30教室.生徒1,200人) から丸見えなのもあってか,中庭自体に用事が無い限り中々人は通らない場所でもあったと思う.また三階建ての校舎に二方を囲まれており音がこだまする.すなはち,そこを歩いたり,ましてや大声等大きな音を立てれば,一瞬にして1,000人以上の耳目を集めることになる.SNS で言うところの Like ボタン1,000人分と同等と言って良いのかは,物理空間で完結する出来事なのと,全員が好意的に見ているのかどうかはまた別な話なのとで,議論が必要だろう.

そんな中庭でよく起きたのが,卒業生によるオートバイの侵入."爆走" とでも書いた方が伝わりやすいか.改造して大きな音が出るようにしたバイクに,必ずと言っていいほど二人乗り (一人でない理由はいかに??) で,時に走行しながら前輪を持ち上げる "ウィリー" 等,とにかく派手に,およそ注目を集めること以外に目的に見当が付かない方法で,中庭に侵入し,走り去る.もちろんノーヘル (メット.これだけで既に当時の日本の道交法では違法).時間にしてどのくらいか,数秒なのか,十数秒なのか.何しろ呆気にとられるのでよくわからない.こんな事がほぼ毎月くらい起きていた,ような気がする.

ググっても中庭を爆走するバイク的な画像は一件も見当たらず…最も近そうなものを拝借しました (参照:http://sakamichi46-akb48.blog.jp/26092440.html) が,流石に校舎内の爆走は私は経験ないかな.

で,校舎内にいる者の反応はというと,生徒は基本的に全員が窓際に集まり注目,そして喝采.沸き立つ声援に,突き上がるコブシ.まるでこの時を待ってましたと言わんばかりの期待の高まり.20年以上たった今となってはおそらくかなり (極めて不必要に) 記憶を美化しているが,それにしても一定数の生徒は興奮をもってその時を迎えていたのは間違いない.少なくとも生徒会にあれをやめさせて欲しいという懇願が届いたというのは聞いたことが無かった.

一方で教諭陣はというと,殆どの教諭は直接対抗する術もなければ,対抗する責任も無いと思われるため,来訪中の卒業生に対しては何もせず,自らの教室の沈静化に注力していた,はず.しごく真っ当な対応だと思う.そして,一部の教諭勢,大概いつも同じ顔ぶれだったと思うが,は対抗する責任があるのか,或いは対抗する "チカラ" を持ち合わせてもいるからなのか,その辺りの動機も不明なままだが,驚くべき瞬発力で中庭に飛び出てきて,時には竹刀等武器となる物も携えつつ,バイクの爆音に決して負けない音圧で卒業生に "語りかけ" るのである.対する卒業生は当然呼びかけには応じずバイクで走り去るので,社会的立場においては圧倒的に教諭陣が上にいるにも関わらず,あくまで絵的には●●の遠吠え的構図になってしまい,後棟からみている全生徒と教諭までもに,ある種の郷愁を覚えさせる.

このような教諭達と卒業生達との,学校内外での "やり取り" については都市伝説が多く流布している.なお偶然か否か,かような "武闘派" の教諭陣が好んで滞在する部屋というのがあり (筆者の担任がその部屋の "主" (読み:ヌシ) 的存在だった年にはしょっちゅう入り口を訪れたが,例外なく煙 (タバコです) が充満していた),この学校の構造上その部屋がちょうど前棟の中庭に張り出した位置にあるため,中庭を爆走するバイクの威力を最も直接的に感じる・被るのがその部屋の中にいる人達になる.かといって卒業生らの授業中の爆走デモンストレーションが,張り出し部屋の住人へのなんらかの効果を狙ったものなのかは,これは時によるらしいというのは後日談で,そのような先輩方との繋がりから回り回ってきいた.

なんとも牧歌的な田舎の話.そして一言だけ感想を言えば,気持ちは良さそう,でもやらんよ.

 注:筆者の住む米国は,学校内へ侵入し銃を乱射するという残忍極まりない輩が毎年のように現れる国であり,銃を携行した保安担当者が学校ごとに居てもおかしくなく,仮に授業中に教室脇を大爆音でバイクで走行などしたら有無を言わさず発砲の対象になっても不思議ではない.

Saturday, December 31, 2016

戦後小学生の冬の登校前の遊び

日本は今年も寒い寒い冬がやって参りましたが,それでも比較的には地球が温かくなってきているということを実感するお話を紹介します.

昭和20年代,小学生だった父親は,夕方学校が終わり家に帰る前に,小学校の裏手にある神社付近の田んぼに必ず行ったそうです.

秋の稲刈りが終わった田んぼは,春の田植えまで休閑で,水もなく,上部が刈り取られた稲の株だけが残り,何にも使われない文字通りの休閑地です (説明下手ですみませんが田舎出身の方なら何のことを言ってるか伝わりますかね…).なので冬の田んぼは子供の遊び場と化します.何しろ稲の切り株が 50cm 毎くらいに生えてるもんだから,かけっこしようにも走りにくいし,子供大好きサッカーなんてボールが真っ直ぐ転ばないからラグビーになってしまいます.だから私個人は田んぼで遊ぶのは好きではなかったですが,とはいっても物を壊す心配のない広い遊び場ですから,重宝なのです.

話が逸れました.

小学生の父親達がそんな田んぼに行って何をするというと,特にそこで遊ぶわけではなく (まあ,遊んだかも知れませんが),田んぼに水をザバーっと大量に撒いて帰るんだそうです.すると撒かれた水は翌朝にはびーっちり凍ってるんだそうで,さすれば後は昭和中期の小学生,靴なんて高級なアイテムがが日用品となるのはもうちょっと後で,この時代はみんな下駄ですから (前々回も参考に),そう,下駄スキー (注:父親命名) です.下駄で氷の上を滑るだけ!なんだいそれ下駄スキーじゃなくてスケートじゃん!と現代っ子の100人中100人が瞬時にツッコむところですが,スキーとスケートを混同した終戦直後の小学生を責めるべきではない.

私が小学生だった昭和50年代も,特に冷え込んだ朝は水たまりや池に氷は張りましたが,上にのぼって激しく遊んでも割れない程分厚い氷を見た記憶は無いかな...30年間の間にだいぶ栃木の冬は温暖化したことを,2人の小学生の体験から感じることができる,というお話でした.

 
写真:外部ブロク:故郷の思い出⑧冬遊び 補足=今でもある竹スキーなど・・・。 より (2021/04/30 goo.ne.jp 側の仕様変更により URL が変わり,画像リンク切れてたのを確認.保存目的で,画像をダウンロードしてこちらでアップロードさせて頂きました).なるほど当時の小学生ですから,袴というかモンペか.ページ内には下駄 (というか草鞋?) の下に鉄が打ってある下駄スケート用特別下駄なんかの写真もあります.親父らが使ってたのもそういうのだったのか,こんど聞いてみます.

Tuesday, May 5, 2015

大正時代開業,或る田舎町の歯科医

今日はT三の父,歯科医院初代院長の N 四郎にまつわるお話 (孫 A の伝聞).なにせ三世代越え,昭和後期生まれの筆者にはお伽話級の古いすとぅりぃなので,話に尾ひれ背びれお頭付きの盛りに盛った部分はあると思われますが.
  • 烏山で開業 (前妻の実家?)
  • 大正2年 現在の所在地 (塩谷郡西部) に N 四郎開業.昭和12年に没.癌か?
  • N 四郎は仕事が終わると汽車で宇都宮に寿司食いにでかけてしまう.後妻さんは美形で,連れ歩くのが自慢.一人娘の S 枝 (後の T 三の嫁,A の母,筆者の祖母.登場人物は以前の回も御参考に) は留守番.
  • 予約というシステムはなかった.農家の患者さんは朝5時から来て待っていた (これは孫 A の治世?の昭和後期でもそうだった気がする,と A の子である筆者談).
  • 義歯を二個作れば一ヶ月食っていけた.
  • 赤髭だった.年末になると集金に歩いたが,催促しないと払いに来ない.
  • 狹間田の小野家に可愛がってもらう.当家のお子さんよりも可愛がってもらう.
  • T三の時代は対処療法,息子 A の時代は三十年経っており,予防療法.果たして N 四郎の時代はいかに?
  • 町内外複数拠点に土地を購入しており,そのうちの仁井田村のそれは当時の市町村合併で村が氏家町に統合される際に町に寄付/取上げられた (詳細不明.要確認).A 曰くこのあたりも "太っ腹過ぎる".
写真:(外部ページ 開港資料館じいさん より引用) 昭和中期にはまだ頭上に照明を掲げる一体型の診療机は無かったのだろうか.助手の女性の服装が一膳飯屋の女将風なのも時代ですね.

Tuesday, March 17, 2015

戦争直後の"冬"を越す

終戦を小学生・長男として迎えた A の回顧話.
  • 暖房は無い.どの家にも無い.
  • みんな足袋か下駄.家に上がれば素足.
  • 運動靴は配給で,各クラス一足だけ,抽選制.
  • 小学生の冬はみんな "二本柱" -- 鼻水が口まで二本線を作る.
  • 寒すぎるので学校の畳の部屋で畳に足の裏をこすって温まった.
  • 高校に上がると図書室には暖房があった.

Wednesday, January 1, 2014

同じ班内,小川のほとりに住む教諭ご夫妻のはなし

今日は教諭ご夫妻 KB 井家とそのご近所の話.
  • KB 井さんは毎晩夫婦喧嘩.奥さんを追いかけて旦那さんが二階に駆け上げる音が,道挟んで向かいの A 井さん宅にも聞こえてくる.
  • KB 井奥さんは,喧嘩のしまいには旦那さんの仕事カバンを川に投げ込んでしまう.
  • 奥さんが口紅で旦那が寝てる間に顔に落書き.朝いそいで仕事に向かう旦那は顔も見ずに仕事に向かう.なんどか朝すれちがった A 井さんは顔を注意したことがあるらしいが,気付かずに学校に着いたことはあるに違いない.
  • 落書きの内容は,"キンタ○" とかもあったらしい.
  • ちなみに A 井さん宅も夫婦喧嘩が絶えなかった.夫に先立たれた奥さんは,"何度もコ■されるかと思った"と当時を述懐する.しかしご近所さんに言わすとなんだかんだで仲睦まじいご夫婦だったそうだが. 
  • ちなみに KB 井家は一階ではタバコ屋を営んでいた気がする.学校教諭がお店屋さんも経営とか今考えるとプログレッシヴ.

Saturday, December 28, 2013

爬虫類のはなし

注意!爬虫類が苦手の方は読まないことをオススメします


  • 農家の周りや,川/用水の側の家には蛇が沢山
  • 川側の A 井さん宅,夏は戸を開けっ放しにしていた,帰宅するといつも旦那の座ってるはずの座布団にはアオダイショウがトグロを巻いて座っていた.
  • A 井さん実家は農家, お婆ちゃんが居間の畳に寝そべりながら天井をゆっくり指さす.見るとそこにも蛇が.
日本の蛇の殆どは本来人に直接危害を加えないので,見かけたらそっとしておきましょう

Monday, December 9, 2013

食卓のあれこれ;家長と子供とで異なるオカズ

  • 祖父 T3 は刺身,その子である A 達兄弟のオカズは漬物.
  • T3 が残すと子供たちがハイエナ化.
  • そのせいか A は自分のぶんを少し残して子供たちに分け与える癖がついた.
  • (しかし私らが子供の頃に父 A が残してくれた記憶もそんなに無いが.70歳を過ぎた最近でこそ残してくれるが.)